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2016年9月の記事

2016年9月11日 (日)

札幌混声合唱団委嘱《タプカル・キ・キ 》作曲ノート

こちらは先日初演の新作の作曲ノートです。さっそくですがブログに挙げておきます。

札幌混声合唱団創立25周年委嘱
《タプカル・キ・キ — アイヌの語りつぎ 混声合唱組曲— 》について

この作品は札幌混声合唱団の委嘱により作曲した、アカペラ合唱組曲です。本年は団創立25周年にあたるとのこと、札幌混声合唱団にまず心よりのお祝いを申し上げます。
7月、本作の練習に立ち合わせていただくために札幌にまいりました。昨年の定演では札幌混声さんは正確な音程による美しいハーモニーと豊かな旋律表現が印象的な合唱団でしたが、今回は新作のやや凝った合唱書法もすばらしい声で歌っておられ、音楽に向かう皆さんのまっすぐなご姿勢に接することができました。また数年前の東京混声合唱団委嘱新作で出会えた陣内直氏のエネルギーに満ちた音楽解釈・指揮にも、作曲者として大きな期待を抱いている次第です。

さて副題が示す通り、本作はアイヌの民族素材によっています。第一曲、第二曲では現地で採譜された民謡を、第三曲では知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』をテキストとして用いています。北海道人でない私がなぜアイヌの民族素材によって作曲するに至ったかを、少し記します。
私は西洋クラシック音楽分野の人間ですが、創作活動は沖縄民謡を素材とした作曲でスタートさせました。私は和歌山出身です。遠い沖縄文化になぜ魅かれたのか。琴線に響くものがあった、としか申せません。音楽に魅かれたのはもちろんですが、沖縄の風土と歴史の持つ、底抜けの明るさと悲しさに共感した、とも思います。
北海道アイヌ民族には、沖縄以上の厳しい歴史があります。またその歴史を反映してか、伝統芸能に関する資料は沖縄に比して限られているようです。そしてさらに、アイヌ文化に取材しすばらしい作曲を成した方がすでにおられました。私の師の師にあたる伊福部昭氏です。そんな理由から、沖縄との出会いが電撃に打たれたようであったのに対して、私のアイヌへの思いは共感の深まりと逡巡を経ながら、長い時間をかけて高まってきたように思います。
二つの文化に共通する点はあると思います。誤解を恐れず記すならば、どちらも豊かな自然環境に恵まれながら、日本という国においてマイノリティーの一面を持つところです。しかし私は、おそらくそこに魅かれたのだと思います。社会的強者に芸術はさほど重要ではありません。むしろ弱者の心の陰影を表現することが芸術の役割なのではあるまいか。
アイヌ文化を調べていると安易な感情移入はできなくなります。彼らの魂は私たちのそれよりずっと、静やかで慎ましいものだったろうと感じます。彼らの神は天上に在るのではなく、身近なトリカブトや雀やカワウソたちに姿を変えて顕れていました。そして彼らの魂の風景は、民謡採譜資料や知里氏の著作に遺されていると感じました。アイヌの世界は、沖縄音楽に心打たれた私がいつかは訪れるべきところだったと、いま感じております。

以下、各曲について記します。
1. 〈タプカル・キ・キ〉…「アイヌの早口言葉うた」という副題がついています。十勝と静内で採譜された“ホウジロガモの早口言葉”“パイカイ・カムイの呪文”“雀遊び”の素材を用いています。円陣を組んで遊んだり、酒を飲み踊ったり、また突如トランス状態になったりと、変化の激しい曲です。
2. 〈ハント・ワッカ〉…「トリカブトと雀の神謡」との副題があります。こちらは静内の採譜によっています。呟くような短いモチーフを歌い継いでいきます。中間部は軽やかな輪唱スタイルで。野草や小鳥も、清冽な風土のなかでみずみずしく輝いているようです。
3. 二つの小曲から成っています。前半フクロウの神謡〈銀の滴 降る降るまわりに〉はあまりに有名で、説明の要はないでしょう。attaccaで続く後半〈カッパ・レウレウ・カッパ〉では、カワウソの滑稽な悪戯の様子が歌われます。
この終曲ではアイヌ語原詩と日本語訳詩の両方を、語り歌うように進んでいきます。始めはアイヌ語でひと語りしてから対訳が続きますが、徐々に呼応の速度を上げてアイヌ語に日本語がかぶったりその逆になったり、また互いに表情をつけて演じたりもします。(ただし知里氏各編の全体ではなく、それぞれの一部を用いています。)

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東京リーダーターフェル委嘱《季節よ、城よ…》について

昨年秋の新作の作曲ノートです。少し時間が経ちましたがブログに挙げておきます。

東京リーダーターフェル1925創立90周年委嘱作品
《季節よ、城よ…》について

男声合唱団東京リーダーターフェル1925創立90周年を心よりお祝い申し上げます。 その記念すべき年に、東京リーダーターフェルさんに大変ご苦労をおかけしそうな新作を書いてしまいました。副指揮者鄭基成さんから「西洋近代詩の我が国への受容を、翻訳詩集で見直したい」との、言語学者らしいご提案があり、『ランボオ詩集』を読んだのがそもそもの始まりでした。
樋本英一先生はこれを受け入れ、団員の方々にはおそらく叱咤激励を送りつつ、また類まれな目力とオーラを放つ上杉清仁氏を“ランボーの影”として起用されました。そして技術局長池野洋臣さんは新作のために、すてきなキャッチコピーを考えて下さいました。
「世界劇場」。
ランボーの詩世界を言い得て妙、そう思いました。本作がそう聴こえるか、今までにない不安といつにない大きな期待のうちに、私も初演の日を迎えます。

以下、本作の解題、作曲ノートです。
若い頃からずっと理解できないと思っていたランボーの詩世界が、ようやく分かってきた気がします。
中原中也は、ランボーを「パイヤン(異教徒)」と呼んでいます。キリスト教文化圏の縁の外に居る異人という意味に、私は受け取っています。ランボーの詩作は16歳に始まり20歳で終わりました。その後は詩作を捨てて異境で商人として生き37歳で亡くなりました。長くない人生の前半、ランボーは“言葉の人”でした。『母音』を駆使する人ですね。
〈プロローグ〉は、その宣言のような曲です。
さて、ランボーは異教徒として、また言葉の人として何を書いたのでしょうか。
小林秀雄は、ランボーの言葉『詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な乱用によって千里眼になる。』を引用しつつランボーにとって詩とは、「見た物を語る事であった。」と評しています。つまり、その詩はロマンティシズムでも象徴派でもなくサイコロジカルでもない。彼は普通の人間には不可能な眼差し、感覚の研ぎすましによって何かを観、それを記述した。
彼が観たものを、中也は『季節』=時間 と『城寨』=空間 という象徴的な意味と捉え訳しています。疾走する森羅万象が観えたのだと想像します。私のイメージでは、人が死ぬ瞬間にパノラマ、走馬灯のように観るという“人生回顧”はそんな風なのではないかと。それを青年ランボーが観た。観てしまった。
〈季節よ、城よ…〉のオスティナートは、疾走の速度感を表現しようとしています。
後半生は異境に生きたと書きましたが、ランボーは少年時代からもう放浪する人でした。われわれ男という人種は誰でもそんな性癖を持っていそうなので、感覚的に分かります。しかしランボーのそれは、正に筋金入りだったらしい。
〈わが放浪〉は少年ランボーの最初の故郷脱走、放浪風景のようです。こんな体験によって、彼は『千里眼』を自ら培っていったのでしょう。どこか寂しく、でもうきうきした気分を感じていただければと思います。
宇佐美斉はこの詩について、「詩的常套句に卑俗な日常語をぶつけたりからみつけたりすることによって、軽い自己揶揄の調子を終始見事に生み出している。」と評しています。
さて『千里眼』を持つ詩人が、全ての欲望は幻想にすぎないがしかし切実な男の性的欲求と、大地に根ざして日常に生きる現実的な女の思いのズレるさまを、見逃すはずはありません。ランボーはヴェルレーヌとの愛憎生活を経験したほどですから、男の欲望について客観的に熟知していたことでしょう。おそらく女についても。
〈ニイナのこたえは〉は、粗野な欲望と滑稽さがないまぜになって走っていきます。中間部にはしびれるような陶酔があり、最後は笑いたくなるような乱痴気騒ぎになります。早口で歌われる情景は、かつえた男の眼に映る、意外に健康的な田舎の風景のようでもあります。
堀口大學は、この長大な詩の「最後のニナのひと言は、冷水三斗、のぼせあがった若者の情熱を一瞬にして吹っとばす威力を持つ。」と書いています。
〈エピローグ〉は挽歌のような響きでゆったりと歌いますが、実にこれは高校生のランボーが書いた詩です。夏、生きとし生けるものたちがみな瑞々しく在る風景、まさに青春のさかりに人生の終わりをかすかに感じさせる、不思議な詩です。
リーダーターフェルさんの平均年齢は、私と同じ位か少し上と伺っております。老年期に入ったわれわれが今懐かしむのは、充実していた壮年期より、未来がみえないまま青臭い野草を踏んで歩いていた、あの青年期ではないでしょうか。
私のノートはここまでです。最後に、訳詩者である中也の(これ自体が詩のような)一文を、紹介させて下さい。

——所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。(中略)云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。——

参考文献
中原中也訳:ランボオ詩集(岩波文庫)、小林秀雄訳著:ランボオ詩集(創元ライブラリ)、
宇佐美斉訳:ランボー全詩集(ちくま文庫)、堀口大學訳:ランボー詩集(新潮文庫)

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