2017年9月12日 (火)

音楽を志す人のために

だいぶ前、昨夏のことでしたが、音楽之友社さんから原稿執筆依頼をいただきました。同社が毎年出版されている『音楽大学・学校案内2017年版』の「巻頭言」でした。
光栄なことでしたので、常々考えていることを思いきって書かせていただきました。
同書は昨年10月に発刊され、この拙文も関西の音楽教室の一部の方々が熱心に読んでくださったと伝え聞きました。音楽之友社の担当の方からもお心のこもった労いのお言葉をいただき、うれしかったです。
『同2018年版』がそろそろ発刊される頃かと思いますが、『'17年版』が市場に出回っているうちにご覧いただけたらと思い、ブログでも公開させていただきます。
3000字余りの原稿で、以下は初稿完全版です(出版時は少しだけカットされています)。


音楽大学を志す人のために
 

2016年のいま、「音楽を学ぶ」ということについて語るのは易しくありません。
日本の音楽大学・音楽学部のほとんどは、西洋クラシック音楽に基づくカリキュラムを中心に据えて教育を行っています。その始まりは明治時代にさかのぼります。当時の日本人はあらゆる分野で西欧文化を吸収しようと努力しました。音楽でも同様でした。作曲では滝廉太郎や山田耕筰等が登場しました。そしてそれから約70年経った先の終戦後に、日本の音楽教育は転機を迎えました。ドイツ中心であった音楽の受容は、フランス・イタリアをはじめさまざまな国への留学が盛んになって多彩になり、また非西洋の民族音楽研究についても広く認知されたりしました。我が国の伝統音楽の再評価もありました。同時に先人たちが教育に工夫を加えた結果、日本人音楽家の海外での活躍は珍しくなくなりました。作曲では伊福部昭、武満徹等が登場しました。そうして日本の音楽界は多くの才能を育てながら二十一世紀を迎え、現在に至っています。
若いみなさんに向かって歴史について記したのは、終戦から約70年経ち、再び日本の音楽教育も転機を迎えるのではないかと思うからです。いま「音楽を学ぶ」ことについて語るのが易しくないと思うのは、そういう理由からです。
 
最初に書いたように、日本の音楽大学における教育では西洋クラシック音楽が主です。しかし若いみなさんにとっての音楽とは、必ずしもクラシック音楽だけではないかもしれない。ふだんCDやインターネットで聴いたりするのは、別ジャンルの音楽かもしれません。
それでも私たち日本人にとっての音楽には、明治以降の西洋音楽受容の歴史が脈々と息づいています。大学ではクラシックを芯として、ポピュラー音楽、コンピュータ・ミュージック、アウトリーチ、音楽療法、舞踊その他さまざまなカリキュラムが用意されています。音楽が好きで、音楽大学・音楽学部に進学しようと考えるみなさんに向けて、大学側は工夫を凝らしています。時代の変化に対応する、外形的なキャッチアップは進んでいると言ってよいでしょう。
上に記した「転機」とはおそらくそれら全てに関係し、日本の音楽教育が向かうと思われる方向性についてです。

明治時代に西欧文化全般を取り入れようとした先人たちの真の願いは、いつか我が国固有の、かつ世界に通じる文化を創造するというものでしょう。その切なる願いは、明治からの70年および戦後70年で一定の成就をみたと思います。そして次の70年は、日本の音楽教育の更なる“深化”の時代ではないかと私は考えます。“深化”あるいは“熟成”と言っておきましょう。
これは、音楽各分野における個別的課題とは少し異なります。若い方々は意識しづらいかもしれません。しかし文化芸術の問題として重要です。とりあえず作曲や演奏分野の専門的な音楽の学びをイメージしながら、私が重要と思っている点について少し具体的に挙げてみます。
・音楽することの深い充足感と喜び
・個の表現が共同体の表現でもあるという感覚
・過去の芸術家たちの仕事に自分も連なって在ることの意識
これは、イギリスの詩人T・S・エリオットの論考(『伝統と個人の才能』)にも近いものですが、私なりにさらに記します。
音楽学習がある技術レヴェルに達したとき、学習者はそれが何のためにあってそれを用いて何をするのかという問題に直面する場合があります。しかし、表現の技術はほんらい音楽の実体と切り離せない関係にあるはず。音楽を志したときから、音楽で何を表現するのかと自らに問い続ける事が肝要です。技術と実体とが合致しはじめると、音楽することの深い充足感が生まれてきます。この喜びの感覚は、音楽を一生続ける原動力になるはずです。
また、ここで湧き上がってくる音楽は、人のそれとはどこかが違う。同じ楽曲を演奏していてもどこか違う、それが個性というものです。個性とは、滲み出てくるものなのです。
そんなあなたの音楽を聴いて共感してくれる人が、現れてくるかもしれない。あなたもまた誰かの音楽に共感したりする。そうやってあなたの、あるいは誰かの音楽が、“私たち”の音楽になることもあるかもしれません。―私の言いたかったことがここにある―といった強い実感がおとずれることもあります。それらはすでに「共同体の表現」と言ってもよいものでしょう。
そんな活動を続けていると、ふと過去の芸術家の音楽や言葉がいままでと違った風に感じられる時もあります。遠い彼あるいは彼女の言葉に込めた思いや歌った音楽がどうして生まれたのか、 何となく“分かる気がする”瞬間があります。音楽史上の知識としてではなく(大変僭越なのですが)同業者みたいな感覚で、古今東西も関係なく。そのときあなたは先人たちの歩みに何らかの意味で連なっている、と私は思うのです。
音楽を学んでいくうえで、上記三つのような点について少し意識的になっていただくのがよいと思います。いわば、学びの “構え”のようなものです。
そして表現という行為はプロフェッショナルな芸術家だけでなく万人のものですから、音楽教育を志す人やアートマネージメントなど音楽活動を支える分野に関心がある人にも、このような感覚や意識について考えていただくことは大切だと思います。また日本の音楽教育の“深化”によって、大学・短大だけでなく高校やさらに中学・小学校の頃からこんな感覚の兆しがあれば、とてもよいと思います。
この感覚や意識はゆっくりと芽生えていきます。日本の若い音楽家たちがこんな感覚や意識を持つとき、いよいよ日本の音楽文化は“熟成”の域に入ると思われます。ただ個々の音楽家にとっては、技術的な成長と違って目に見えるような成果がすぐ現れるわけではありません。内なる変化はゆっくりと始まり、手応えはあるものの戸惑いも起きるかもしれません。でも迷わないで下さい。
中世の仏教者道元は、「悟りを得たときに、人はいま悟りのうちにあるとは意識しない。それでもそれが悟りという状態なのだ。悟りとはこれなのか、と感じつつ歩んでいけばよい。」と教えています(『正法眼蔵 現成公案』)。これは宗教的、内的風景について言っているのですが、「日本の西洋音楽」が我が国固有の文化になるというプロセスにおいて私たちが経験するであろう感覚は、たぶんこれに近いのではないかと想像しています。それは個人から始まり、徐々に広まり、いずれは社会における文化意識となっていくのではないでしょうか。
 
日本社会はいま変わろうとしているようです。激動の一世紀半の後にきたる社会で人々が強く求めるものは、これまで多くの日本人が求めてきたものとは違った何かになっていくはずです。そのひとつは文化芸術でしょう。
古来日本人は、細やかな心の綾に敏感です。そして勤勉でもあります。有史以来中国、インド、そして西洋から多くを学んできて、独自の文化を生み出す力があります。私たちの学びが確かなものであれば、日本の音楽文化はこれからさらに花開いていくはずです。そして私たちには次代の文化の担い手が必要です。次の70年を担う人たちです。音楽の道は楽ではないかもしれませんが、文化というものは受け継がれなくてはなりません。
あなたが音楽をほんとうに好きなら、音楽大学・音楽学部をめざす人は、ぜひその音楽への志をつらぬいて下さい。

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2017年1月 3日 (火)

2017年頭ブログ

よき年になるように、年の始めに思うこと。

・この世のさまざまなノイズと楽音を聴き分けること。ノイズには関わらない、とり合わない。楽音は愛でて育てる。
・堅固な構造を音で造ること。建築と作曲とは似ている、役割もまた。中には人間が入る。
・使い込んだ身体を大切に扱うこと。脳が暴走して他の臓器を痛めないように。この身体は自然が与えた私のもの。
・やり残していることを忘れないこと。手段と目的を間違えない。自然体で普通に生きて、内なる眼差しはそらさない。

自分への戒め、四つです。

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2016年12月25日 (日)

今年最後の夢分析(個人史的な)

夢をみた。
55年前に亡くなった祖母が実は生きていてひょっこり和歌山の家に帰ってきて、再会しても私に気づかず無駄話をしているので憤慨したところで目が覚めた。
さて、この夢の意味するところは?

これは現実とどこで繋がるのだろう。「祖母」か「和歌山」か、「無駄話」か「憤慨」か。どうも後者だ、すると引っ張り出された記憶は前者でそのまた前者だろう。その理由は後で記す。「祖母」は夢の中では亡くなった時より少し若く、青いブラウスを着ていた。(そこだけ色のある夢だった)。

しばらく「祖母」について思いを巡らせていると、ある事を思い出した。
つい数日前に和歌山に行ったが、祖母のある形見を大阪に持ち帰っていた。それは祖母が作ってくれた“晶”という私の名一文字の印鑑だった。

55年前、祖母が急逝する日にそれは作られた。その日私は家でピアノのお稽古をしていて、祖母にひどく叱られた(初めて叩かれた)。私は大声で泣いて、母は「そんなに叱らなくても」と祖母に言い、祖母は「そうやったな…」と言って(たぶん後悔して)、私の手を引いて近くの印鑑店に行き、形見となるその印鑑を作ってくれたのだ。
その日の深夜、祖母は急逝した。翌朝に私は祖母の死を知った。

私はこの日のことを、55年経った今も鮮明に覚えている。まだ舗装されていない家の前の土みちを祖母と手をつないで印鑑店まで歩いていったこと、翌朝母が泣きながら祖母の死を布団の中にいた私に告げに来たこと(母は「さやちゃん、びっくりしたらあかんよ…」と言った」)。不思議なことに母に告げられる前に私は祖母の死を感じていたが、それを聞いてやっぱりと思い、外界から隠れるように布団を頭からかぶった。

さて、話は昨夜の夢に戻る。夢の主たる意味が「祖母」だと判断したのは、形見の印鑑ケースが青色だったからだ。夢に現れた「祖母」は、前述した通り「青いブラウスを着ていた」。
夢に現れた「祖母」の主たる意味は、私が厳しく「叱られた」ことと、祖母が「後悔した」ことだ。なぜあの日の記憶を、夢を介して改めて思い出したのか。
それは、先日あった生徒のある発表へのプロセスにおいて、私が祖母に似た立場を演じたからだと思う。(もちろんやや「厳しく」という意味で、それ以上ではない。またこれ以外にこの夢との関係はない。)
つまり、最近のある問題に関する私の逡巡に対して、ある答えが夢によってもたらされたという気がするのだ。
私自身はいま祖母の最後の「厳しさ」に感謝している。その後音楽で一生生きてきたのだからまあ当然だ。
夢のなかの「再会」は、「厳しさ」が半世紀を経て繰り返されたことの象徴とも解釈できる。そして、同じく夢の「無駄話」や「憤慨」はまた別の、近い現実の反映であろう。

夢というもの、それが人の精神生活の一部であると、ここまで感じたのは初めてだ。
さらに驚くのは、この夢がイブの夜の夢であったこと。このことに霊的な意味を感じても、それは思い込みとも言い切れないのじゃないか。あるいは思い込みでもいいじゃないか。私はそう思う。(ちなみに祖母はクリスチャンで児童文学作家だった。“晶”という名はこの祖母がつけてくれた。)

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